代表取締役社長 横田義博 氏【前編】
銘菓「ふくべ煎」「ねぎみそ煎」で知られる米菓メーカーの日新製菓。コロナの第4波が襲来し、まん延防止等重点措置が適用された2021年、社長に就任した横田義博氏が、待望の新製品を発売した。社長就任から3年目。これまでの歩みと今後の展開について話を聞いた。
豊富なスキルを経営に活かす
異色の経歴
横田社長は高校卒業後、専門学校に通っていたが、その分野は音楽・映像系。主にテレビ番組の制作について学んだという。
「高校時代はまさにテクノポップ全盛時代で、自分たちでシンセサイザーのクラブを作ろうとしていたほどなんですよ」と笑顔で語る。
専門学校卒業後の進路としては、当然音楽・映像関係の仕事を意識していたが、現実を見据えた結果、亀田製菓への入社を決意する。しかし、その畑違いの経験が後の業務に生きてくるのだから、やはり人生はわからない。
営業で高めた人間力
亀田製菓に入社後、まずは営業の最前線でもまれたが、とある上司に引き抜かれ、販売企画へ異動する。そこでは主に販促物の制作を担当していたが、時折ラジオ番組やCM制作に絡むことがあった。
「こちらはスポンサー、つまり発注元ですから、発注先にいろいろと要望を言えるわけですよ。そういう意味では、学生時代に好きだった環境が一部あったことがよかったと思います。そんな自分を引っ張ってくれた上司がいてくれたことが、有難かったですね」と今も感謝の思いを忘れない。
その後、横田社長のまさに全国行脚が始まる。四国の松山を皮切りに、高松で営業。九州に異動し企画の業務につき、企画職のまま中四国へ。一旦福岡に戻った後、今度は東北・北海道エリアを管轄する支店長に就任する。さらに九州全域の支店長を経て、中部地域の支店長を務める。
まるで転職⁉新規事業
そんな横田社長に2012年、新たな辞令が下る。新規事業部長だ。この部署は、低たんぱくご飯や乳酸菌関係など、米菓以外の製品を担当する部署だ。さらには米の販売や通販事業も担うことになる。
「この部署での業務は、かなり難易度が高かったですね。これまで全く経験のない仕事でしたから。農協との折衝もやらなければならない、医薬のことも勉強する必要がある。また亀田工場の一部に、低たんぱく質米の工場があるので、その工場長も兼務していました。それまでのセールスでの経験が、ほとんど生かせなかったので、ゼロベースで転職したみたいな感じでした。新規事業なので、そう簡単には業績も上がりませんから、正直しんどかったですね」と当時を振り返る。その後、新規事業の販売拡大のため、新規事業部長のまま東京へ席を置く。
そうこうしている間に、3年の月日が過ぎ、今度はシステム開発部長に任命される。会社内のシステム管理はもちろん、関連会社のシステムとの統一化など、亀田製菓グループ全体のシステムの基礎作りを任された。
「学生時代、音楽をやっていた頃に、シンセサイザーに打ち込みをするので、パソコンやプログラムなどをやっていました。ですので、システム関係の仕事には抵抗がなく、むしろ楽しかったですね。この仕事をしている時、システム会社を通して、さまざまな大手企業のシステム担当者と話をする機会がたくさんありました。彼らは、かなり突っ込んだところまで、自社のシステムについて話してくれました。というのは、会社によって事情がかなり違うので、真似のしようがないからです。そんな彼らの話を聞いて、こんなやり方があるんだとか、とても勉強になりましたね」と当時を懐かしむように語る。
システム開発部には2年在籍し、その後マーケティング部長を経て、食品開発部長に着任。再びの新規事業担当である。
「新規事業担当ですからね、米菓以外のことはなんでもやりました。今盛んに行われているプラントベースフードも、私が在籍した時に取り掛かりました。もちろん新製品の開発にもチャレンジしましたよ。一部のチェーン限定で発売した、おゆるしジャーキーもその一つです。それと今マイセンファインフードで製造しているサラダチキンですが、当時は現在のような製造ラインがなかったので、どう製品化するか、われわれの部署で検討していました」と当時を振り返って語る。
このように、新規事業、システム開発、食品事業と、現在ライスイノベーションカンパニーを提唱する亀田製菓において、その最先端を経験してきたわけである。
(次号へ続く)
横田義博(よこた・よしひろ)
1965年生まれ。高知県の土佐山田町(現香美市)出身。東京の専門学校を卒業後、22歳で亀田製菓に入社し、営業や新規事業など、さまざまな部署を経験。2021年に亀田製菓の連結子会社である日新製菓の代表取締役社長に就任。