龍角散からRYUKAKUSANへ
中国OTC医薬品トップメーカー華潤三九と2021年3月31日に戦略的提携協定に署名した同社。それに伴い、主力のど関連製品の販売を華潤三九の巨大な薬局ルートとオンラインを通じて開始した。さらなるグローバル事業拡大に向けた取り組みをはじめ、コロナ禍における戦略、セルフメディケーションの重要性について、藤井社長に聞いてみた。
本紙 中国の華潤三九経由で2021年4月から中国専売品の『龍角散ダイレクト』の販売が始まりました。まずは華潤三九と事業提携に至った経緯は。 藤井 中国の流通は非常に複雑です。店のランクも千差万別。一般的には地域ごとに輸入エージェントを起用することが多いのですが、当社の製品は扱いが難しいのでそれは無理だと考えました。特徴として副作用を伴う医薬品ではないものの、生薬製剤としてしっかりと効く。その説明が必要です。つまり売る側に力がないとお客さんをしっかりフォローできない。そういうことをコロナ禍前のインバウンドの時に相当経験しました。そういう背景もあって、エージェントではなくメーカーと組んだわけです。
――龍角散は早くから海外進出されています。台湾や韓国、香港、アメリカなど、60年ほど前から代理店を置いて展開していた。藤井社長は2001年に家庭薬協会のメンバーと中国の北京に行っています。その頃と今の中国は違いますか?
藤井 変わりましたね。2001年に行った時は、現地に工場を作って製造ノウハウも知財も全て移転すれば中国の製品として売れるからどうかと言われた。そこまでやる必要はない、危険だと判断をして、そこから中国対応はしませんでした。
その一方、調べてみると、日本の家庭薬製品は台湾、香港での展開例が多いことから徹底的な共同販促活動を展開しました。おかげさまで非常に売れました。流れが変わったのは2010年のクールジャパンあたりから。「たくさんの中国の人に来てもらいましょう」という政府の方針を背景に、観光庁から私にも相談がありました。「医薬品をもっと売れませんか」と。面白いって思いましたよ。そんなの売れるに決まっている(笑)。
インバウンドなんて言葉はまだなかったけれど、現地のフリーペーパーの広告枠を買い取って、大幸薬品、太田胃散、救心など家庭薬協会のメンバーとシェアして何十万部も撒きました。ビザを取りに来る人に向けて旅行代理店で配布されるので、それを見て日本に買いに来るんです。すごい勢いで売れました。
それから免税にしてほしい、手続きに15分かかったら困るから3分にしてほしいと言ったら、観光庁から「どこの店でやったらいいのか」と尋ねられました。そこで、中国人に人気のあった『龍角散ダイレクトスティック ピーチ』が集中的に売れる上位の店を教えました。その結果、神薬と呼ばれるようになり、中国の一般の人たちに一気に広がった。
――それが“爆買い”につながるわけですね。
藤井 OTC医薬品は対面販売や市販後のアフターフォローが不可欠です。転売されてしまうとそれができないので、転売目的の爆買いだと思われるところはあえてブロックしました。
華潤三九は最大手のOTC医薬品メーカーだからそういう心配が少ない。ただ、オファーがあった当初は半信半疑だった。2001年の時みたいに「やはり中国で製造したいのではないか?」と言ったら、そうじゃないと。日本で作ったものがほしい。会社を丸ごとほしいくらいだと。
需要が顕在化しておらず、無理に売り込もうとすると、無理難題を言われます。しかし今はまったく逆になりました。向こうから欲しいと言ってくる。こんな絶好のチャンスはない。
――実際の状況は?
藤井 先方から「どういうふうにやるのか?」と聞かれたので、一度にやると足りなくなるので少しずついきますと伝えています。こちらの生産キャパシティもあるし生薬は有限資源。調整しながらやりましょうと。まずは主要都市から攻めているところです。華潤三九が運営するECサイトでも展開しています。データは毎日更新しています。
――現地で売られる価格については?
藤井 高めに設定しています。そうしないと双方にメリットが出ません。先方は「こんなに高いと売れない!」と苦言を呈していましたが、実際のところは売れている(笑)。日本の常識から言ったらかなり売れていますよ!
――年間の生産計画、今後の見込みについては?
藤井 今のペースでいくと2年後くらいには中国国内の需要が日本を上回ると想定しています。そういう計画で動いています。需要と供給をうまく調整できて潤沢に製品が届くようになれば、定着すると考えております。
(次号5541へ続く・全3回)
藤井隆太(ふじい りゅうた)
1959年11月9日 東京都生まれ。1984年 桐朋学園大学音楽学部研究科修了後、大手製薬メーカーに入社。三菱化成工業(現・三菱ケミカル)を経て、1994年龍角散入社、1995年代表取締役社長に就任。