全国の小・中学生3万0238作品が応募
全日本菓子協会・シュガーチャージ推進協議会・全国菓子卸商業組合連合会
全日本菓子協会(ANKA)とシュガーチャージ推進協議会、全国菓子卸商業組合連合会は、農林水産省の後援のもと「2020年度菓子及び砂糖需要喚起施策キャンペーン」を実施した。“心も体もお菓子で元気”をスローガンに掲げ、お菓子がもたらす「楽しさ」「幸せ」といった心理的効用を伝えることと、幅広い層にお菓子及び砂糖の正しい知識を持ってもらう啓発目的で行われた。今年も“店頭キャンペーン”と、小中学生を対象とした“作文コンテスト”の2本立てで実施された。
店頭キャンペーンは、全国のスーパーマーケット、ドラッグストア、生協、和洋菓子店188企業・9556店舗の店頭に応募ハガキ付き小冊子166万3825部を設置した結果、応募総数19万1028通(前年比約96%)で、クイズ正解者を抽選し、賞品(お菓子詰め合わせセット3000円分)が3000名にプレゼントされた。
今回で12回目となる“作文コンテスト”は、「お菓子とわたし」をテーマに実施され、応募実績=応募作品数3万0238作品(前年実績比約102%)。
内訳=小学生部門1万1690作品(同約102%)、中学生部門1万8548作品(同約102%)の中から、最優秀作品には小学生部門・神奈川県の小学五年生「おかしのわ」と、中学生部門・兵庫県中学一年生「コロナが生んだ家族の思い出」が選ばれた。
【審査委員総評】
アグネス・チャン
今年は例年を上回る沢山の作文が集まりました。
コロナウイルスが子供たちの心身に影響を与え、それが作文でよく表れました。
感染対策で休校になって、友達や親戚に会えない寂しさの文章がありました。
でも、一番多かったのは家族と過ごす時間が増えたエピソードでした。お菓子を一緒に作ったり、食べたり、家族の楽しい時間が眼に見えるような優れた作文が多くありました。
会えない友達とインターネットを通して「お菓子の輪」を作った、という作文を読んで、ほのぼのした気持ちになりました。
コロナウイルスの自粛の中でも、負けずに前向きに取り組んでいる子供たちのたくましさを感じました。
医療関係者のお母さんが休校で落ち込む娘を励ますために慣れないお菓子作りをしたエピソードには胸を打たれました。
子供たちは必ず社会の問題に巻き込まれます。そして一番ダメージを受けやすい立場です。
傷ついた子供たちの作文を読むたびに、心が痛くなります。
でも、辛い時こそ、子供たちにとって、お菓子は癒しであり、愛情表現であり、楽しみであるということが作文を通してよくわかりました。
人々が不安な日々を過ごしている時に、 お菓子は子供たちの心の拠り所です。
お菓子の役割の大きさを痛感しました。
改めて、お菓子に感謝、そしてお菓子を作る人、食べる人にも感謝です。
そして、応募してくれた全ての子供たちに大感謝です。
最優秀賞 (小・中学生各1名)
小学生の部
「おかしのわ」 神奈川県 小学校五年
おかしは、いろいろな人を幸せにできます。おかしは、人と人をつなぐことができます。今年、新型コロナウイルスでなかなか人とは、会えないけれど電話やリモートなどで友達といっしょに食事をしていました。そのとき、自分と同じおかしを食べている人がいました。それはまるで、つながっているように感じました。
ぼくは、このことを「おかしのわ」だと思いました。今、どんな人がどんな物を食べているかわからないけど、それが同じおかしだったらその人たちは、つながっていると思います。
みなさんもおかしをいろいろ食べてみてください。もしかしたら、いろいろな人とつながっているかもしれませんね。
中学生の部
「コロナが生んだ家族の思い出」 兵庫県 中学校一年
これは、自粛生活を送っている時にあった出来事だ。
四月の上旬、緊急事態宣言が発令され自粛生活を送るようになった。テレビを付ければどこも、コロナウイルスに関するニュースばかりで暗いニュースが多くなる一方だった。
そして、家の中でも暗い雰囲気が漂っていて、静かな生活を送っていた。私と姉は学校が休校になり、友達と会うことができずにいた。父はいつものように仕事へ向かい、母は医療従事者として働き、忙しい毎日を送っていた。
そんなある日、私が習い事から帰り家に入るとチョコレートの匂いがした。私は不思議に思いつつ、急いで部屋へと向かった。すると、母がお菓子を作っていた。その姿を見て、私はとても驚いた。母は料理を作ることがあまり得意ではなく、もちろん今まで母がお菓子を作っている姿を見たことがなかった。しかし、母はコロナウイルスの影響で学校に行けず、友達とも会えなくて元気のない私と姉のためにチョコレートケーキを作ってくれていた。医療従事者として毎日働いていて、疲れている母だが私と姉に元気をくれた。私はとても感動し、感謝の思いでいっぱいだった。母が頑張って作ってくれたチョコレートケーキ。母の思いがたくさん詰まっていて、とても美味しかった。この味は一生忘れることはないだろう。
今、日本は大変な状況で一人一人が恐怖と日々向かい合わせに戦っている。コロナがいつ収まるのかも誰も分からないまま、時は過ぎていく。困難を乗り越えた先には幸せが待っている。その言葉を信じ、今日も立ち向かう。私の家は自粛中にあった出来事をきっかけに今もなお、にぎやかな生活を送っている。笑い絶えない毎日の中で。
優秀賞各20名 (小学生10名・中学生10名)
「奄美からおいしいお届け物」 鹿児島県 小学校三年
「島から荷物が届いたよ。」とお母さんが言うと、ぼくたちはうれしくなります。
荷物の中には、サーターアンダギーやよもぎもち、かりんとうなど島のおかしがたくさん入っています。どれもぼくの大好きな食べ物ばかりです。ぼくのお気に入りはよもぎもちです。ばしょうの葉にくるまれていて、もちには、よもぎの葉がたっぷりねりこまれています。食べるともちっとしていて甘くよもぎのいいにおいがします。
お母さんが子どもの時はひいおばあちゃんがよく作ってくれたそうです。ぼくもお母さんと一しょに作ってみたいです。それを奄美にぜひ届けたいです。
今は島に行けないけれど、島から届くおやつで、ぼくは島の気分を味わえます。ぼくの心におばあちゃんの温かい気もちもしっかり伝わってきます。早く会えますように――。
「お菓子とわたし」 京都府 小学校五年
学校の授業で「和菓子」について勉強しました。特に、和菓子の「練り切り」に注目しました。
私の学校では、毎年5年生が和菓子の練り切りの使い方などをプロの職人さんに教わります。そして、自分達でデザインした和菓子を、実際に学校で売って、学校の先生や友達などが買いにきてくれます。
その勉強をして、和菓子についてたくさん学びました。例えば、和菓子は昔から日本にあり、歴史があるお菓子だと知りました。そして、季節によって、食べるお菓子もちがうことが分かりました。椿は冬、桜は春など季節によって出す和菓子も変わるということも職人さんが教えてくれました。
私は、この勉強をして和菓子について色々学べて、和菓子の歴史やよく食べるアメやチョコ、ポテトチップスなどの歴史も知りたいと思いました。季節のお菓子についても、もっと調べてみたいです!
「モンブラン研究ノート」 埼玉県 小学校三年
くるくるのかわいい見た目と、うっとりするようなくりのかおりがたまらなくて、私はケーキの中でモンブランが一番好きです。
ある時、今まで食べたモンブランを思い出にのこしたい気持ちと、世界で一番おいしいモンブランを見つけたい気持ちで「モンブラン研究ノート」という記ろくをつけはじめました。平成31年4月から始めて、約50このモンブランが記ろくされています。
時々ノートを始めから見る事があります。最初は味や色、お店のふんい気などを見返しているだけでした。でも、なぜこのお店に行ったかな?とか、この時は妹がたのんだチーズケーキの方がおいしそうでうらやましかったな、と思い出すようになりました。モンブランの記ろくだけでなく、旅行やたん生日パーティーなどの思い出も沢山つまっていて、とても楽しいノートになっています。
「じぃじと僕とお菓子」 沖縄県 小学校六年
「おいしいなら、一人で全部食べちゃえばいいのに。変なの。」
僕は、おいしいお菓子を食べると誰かにあげたくなります。食べた人の笑顔が見たくて一緒に「おいしいね。」と笑い合いたくて。
「陽翔も食べるか?うまいぞ。」
大正生まれの大阪のじぃじは、僕が行くと大切にしまっていたおいしいクッキーを、いつもうれしそうにわけてくれました。
「おいしいね。」と食べる僕を目が下がりきってなくなる位ニコニコと見ていました。じぃじの口の端に破片がついているのがおかしくて僕も笑いました。幸せな思い出です。
「誰かと半分こする時は、必ず大きい方を相手にあげるんだぞ。」と教えてくれたじぃじ。食べた僕が幸せになり、あげればその人も幸せになり、僕の喜びは倍になる、お菓子の力。
「ねぇ、半分食べる?おいしいよ。」
「おかしでたのしいじっけん」 千葉県 小学校一年
わたしのゆめは、かがくしゃになることです。テレビドラマでじけんのなぞをとくかがくしゃが、かっこよかったからです。とくに、スポイトでえき体をしけん管にうつすところが大すきです。
スーパーへおつかいに行ったとき、わたしはじっけんみたいなおかしを見つけました。それは、グミをつくるおかしです。
つくりかたは、赤青きいろのいろ水をつくり、スポイトでグミのもとのこなの上にたらします。いろ水をまぜあわせるといろいろないろが出てきました。
まるで、ドラマのかっこいいかがくしゃみたいです。フンッ、フフフンッとうたもうたっちゃいました。
いろ水を入れすぎたグミはトロトロでせいこうしたグミはモチモチでおいしかったです。
おかしで、たのしいじっけんができました。
「やさしいおかし」 鹿児島県 小学校一年
ポップコーン、スナックがし、アメ、ガム、ラムネ。おかしのしゅるいはたくさんあるけど、ぼくは一ばんあめがすきです。あめはかたちがなくなるまで、あじがつづくからです。あめは、キャンディーともいいます。キャンディーは、キャラメルやドロップなど、ようふうのアメです。のどがいたくなったときになめるのどあめや、あついなつに、ねっちゅうしょうにならないように、よぼうするあめもあります。あめは、ならじだいのじんむてんのうが、おこめをもとに水あめをつくったことからはじまったそうです。あまいものは、しあわせな気もちになって、みんながへいわにくらせるようにとかんがえられていたそうです。
あめは、小さいけれど、みんなのことをおもうやさしい気もちがつまったおかしだとおもいました。ぼくも、おもいやりのつまったおかしをつくりたいです。
「お菓子を作る人の手間」 神奈川県 小学校五年
私は、いつもあたりまえのようにお菓子を食べていました。だけど学校が休校になり、いろいろなことが出来なくなって時間があまるようになりました。そんなとき母が「お菓子を作ろう。」と言ってくれました。そして私は母とマカロンを作りました。私が思っていたより手間がかかりました。私は、こんなに手間をかけて作ってくれたお菓子を、あたりまえのように食べていたことをとてもはずかしく思い、そしてこれからはもっと作ってくれた人に感謝の気持ちをこめて食べようと思いました。
みなさんもお菓子をおいしく食べれるのは、手間をかけて作ってくれた人たちのおかげだと思ってください。お菓子を作ってくれている人のことを思って食べると、今までより、もっとおいしく感じると思います。
「コロナとお菓子」 愛知県 小学校六年
私は五年生のとき、友だちと遊ぶ時は必ずおかしをもっていきました。一人で食べる時と、みんなで食べる時ではなぜか分からないけど、みんなで食べた時の方がおいしかったからです。
今はコロナウイルスのせいで、みんなで食べる機会がなくなってしまいました。なので一人でしか食べれなくて五年生のころは楽しかったなあと思います。
もし、コロナがおさまったら、気軽に友だちとお菓子をたくさん食べておしゃべりしたいです。マスクをしないでしゃべったりしていると、わるいことをしているような気持ちになります。すごく悲しくなってしまいました。
これから、流行らないでほしいし、自分もうつらないように気をつけて、いきたいです。
「みんなでおおわらい」 茨城県 小学校一年
チョコレートをたべようとして、つつんであるかみをはがしたら、どろどろにとけてたよ。
びっくりしたけど、そのままたべたら、おひげみたいになったよ。
それをみて、みんなでわらいあったよ。
じいじやばあばやママとパパみんなでおおわらいしたよ。
いもうととふたりで、かおみてわらったよ。
おもしろかったよ。
「休校期間中の父とのパンケーキ」 愛知県 小学校六年
新型コロナウイルスのえいきょうで学校が休校になりました。なので、毎週父とパンケーキを作っていました。
あるときはフワフワにするために、炭酸水を入れたり。またあるときはきれいな形にするために、型を買ってきたり。毎週毎週じょうずになっていくのがすごく楽しかったです。
また、作ったのを母や姉に食べてもらい、
「おいしい。」
と、言われたらすごくうれしいし、自分で作ったのを食べると、おいしさ倍増です。
今、ゲームなどがはやっているけど、家族みんなで料理したりするのもいいと思います。みなさんもぜひ家族で楽しくおいしい料理を作ってみてください。
「人と人とを繋げるお菓子」 埼玉県 中学校二年
私の父は、単身赴任で海外に住んでいます。日本に帰ってくることはあまりなく、年に一度、会えるか会えないかです。そんな父は、マメな人で、二ヶ月に一度、必ずダンボールを送ってくれます。ダンボールといっても、両手に乗るほどの小さなサイズです。その中には、手紙や現地の写真、お菓子などが入っています。私は写真を見て、手紙を読み、お菓子を満喫したら、父に手紙の返事を書きます。父はいつも、仕事が忙しいから今回も帰れない、と書くので、私は毎回、大丈夫だから心配しないで、と返事をします。しかし、私はかれこれ二年近く父に会っていません。正直、さみしいです。だから私は、自分から父に手紙を書くことにしました。
父へ。お元気ですか?こちらはだんだんと暖かくなってきました。そっちは寒いでしょう?近々、日本に帰ってきてはどうですか?少しさみしいです。仕事があるなら構いませんが、帰ってきてくれるとうれしいです。
手紙は書けたが、何か物足りない気がする。そうだ、自分もお菓子を入れよう。いつも父がしてくれたように。
私は自分が一番気に入っているお菓子と手紙を小包に入れ、ポストに投函しました。
しかし、何日待っても返事はきませんでした。諦めかけていたある日、インターホンが鳴りました。ドアを開けると、そこには父が立っていました。
「今まで帰ってこられなくて、ごめんな。送られてきたお菓子を食べたら、急に日本が恋しくなって、帰ってきたんだよ。」
二年ぶりの再会に私は思わず涙を流しました。
「これ食べよう。今でも大好きなんだろ。」父の手には、私が送ったお菓子と同じものが握られていました。
お菓子、それはどれだけ遠く離れていても、人と人とを繋いでくれる。私にとって宝物だ。
「私と母とショートケーキ」 東京都 中学校二年
私は、小学生低学年の頃いじめをうけていました。彼らからしてみればいじめは遊びだったかもしれない、ですがその頃の私にとってそれは、とてもショックなことでした。毎朝、学校に行こうとするたびに今日もいじめられるかもという恐怖心におそわれました。なんとか教室の前まで来たとしても、なかなか教室に入ることができなかったのです。学校へ行くことが憂うつになり、しだいに行きたくないそう思うようになりました。私は、思い切って母に学校を休みたいと話しました。すると、母はこう言いました「いいよ。今まで良く頑張ったね」私は、二学期の間だけ不登校になりました。しかし冬休みが終わる頃、私はまた不安におそわれました。「登校したらいじめられるかも」怖くて怖くて仕方がありませんでした。かといって母に約束したことを破ることもできません。悩んでいる間についに始業式の前日になってしまいました。一人で沈んでいると、母は台所に行き、手作りのショートケーキを持ってきてくれました。私の母は、お世辞にも料理上手とはいえないため、そのショートケーキは決しておいしいおいしいとはいえませんでした。けれど、そのショートケーキの甘さは、私の胸をじんわりと温めていくようでした。母の思いがつまったショートケーキにはげまされ私は言いました。「明日、頑張って学校行くから。」そう言いながら泣きました。母も、涙を流しながら「うん」とうなずいてくれました。次の日、私は学校に行くことができました。今も、なにか辛いことがあると、あの母のショートケーキを思い出し、そのたびに「よし頑張ろう」と思うのです。
「母とを繋ぐお菓子」 鹿児島県 中学校二年
私は今、東京から鹿児島の離島へ山村留学に来ています。島にはお店が一軒もありません。コンビニやスーパーはもちろんのこと、お金を使える場はジュースが買える自動販売機のみです。食事に関しては、昼食は学校で給食を食べ、朝食と夕食は里親さんが用意してくれるので困ることはありませんが、どうしても食べたくなるものがあります。それは、お菓子です。
長期休みには、東京の実家へ帰省するため、その際にたくさんのお菓子を準備します。そして、島に大量に持っていきます。しかし、東京から鹿児島へ一度に持って行けるだけのお菓子にも限界があり、一ヶ月ほどで底を尽きてしまいます。すると驚いたことに、お菓子がなくなる数日前に、母から荷物が届きます。母が私のことを気遣って、送ってくれるのです。学校で使う道具と一緒に、いつもお菓子が手紙と一緒に入っています。
「計画的に食べて。」
「わかっているよ」と心の中でつぶやきつつも、母からの手紙に綴られた一言に、涙が出そうになります。私の大好きな梅味のグミやスナック菓子が入っていて、何でも私のことを分かってくれる母に感謝の気持ちでいっぱいです。本当は、私自身が母を支えていかなければならないという立場なのでこの感謝の気持ちを母に返せたらと思います。
後期課程生になり、なかなか母に甘えたり、素直にお礼なども言えなくなりました。しかし、お菓子が届いたときだけは違います。
「お菓子届いたよ。ありがとう。」
電話越しに素直に言うことができます。もちろんお菓子のことだけではありません。普段は照れくさくて言えないありがとうの気持ちを、鹿児島にいる私と東京にいる母を繋いでくれるお菓子にのせて伝えています。次の荷物が届くのがとても楽しみです。
「平和とチョコレート」 鹿児島県 中学校二年
板チョコを奥歯で噛む。甘い香りが鼻に広がり思わず笑顔になる。あの頃の子ども達もこうやって笑顔で青空を眺め、戦闘機を見送ったのだろうか。国のために死に行く彼らを。
私の住む黒島では、毎年五月に特攻平和記念祭が行われる。大戦末期に沖縄戦線に向けて出撃した旧日本軍の特攻戦闘機がエンジンの故障でこの黒島近海に不時着した。そのとき島の人達は、少ししかない食糧を瀕死の特攻隊員達に与え、必死に看病したそうだ。当時命を助けてもらった安部正也少尉は、もう一度知覧に帰り、島の子ども達のために戦闘機からチョコレートなどのお菓子を空から落とし、再度沖縄の地に向かったという。その安部少尉のご家族や縁の方々が年に一度黒島に集い、平和を願うのがこの記念祭だ。
昨年九月に私は、知覧特攻平和会館を訪れた。そこには危機に瀕した日本を憂慮しながら敵艦に体当たりしていった隊員の最後の言葉や遺書が数多く展示してあった。本当は愛する人と共に、家族と共に、もっともっと生きたかっただろうに……。安部少尉は助かったのに、なぜまた出撃したのだろう。空からお菓子を落としたとき、どんな気持ちで黒島を見つけたのだろう。彼の遺書を見ることは叶わなかったが、他の特攻隊員の文章を読み私は胸が締めつけられるようだった。
「おいしいね」「ありがとう」空に向かって微笑む子ども達の顔が目に浮かぶ。あのチョコレートには、自分の命を救ってくれた島の人達への感謝の気持ちと、平和への強い願いが込められていたのではないだろうか。そう気が付いたとき、私にとってチョコレートはただのおいしいお菓子ではなくなった。彼らが自らの命を捧げて築いたこの平和を守らなくてはいけない。そして何より感謝の気持ちを忘れずに、自分の命を大切に生きていこう。口の中に広がる甘さに、私は目を閉じた。
「クッキーとメッセージカード」 沖縄県 中学校三年
僕は、小学校6年生の頃●●●●●●●●中学校を目指して受験をしていました。
僕は、小学校6年生の夏休みに自分だけの力じゃ無理だと知り塾に通うことにしました。ですが塾と言っても沖縄の本島にある塾でした。実は、久米島という離島に住んでいて、塾に通うか迷ってたところ母や父が、優しく「頑張りな」と言ってくれ僕は、飛行機で塾に通うことを決意しました。
それから週に行きの便で2回帰りの便で2回と一週間で計4回も飛行機に乗って塾に通ってました。そして、迎えた推薦テスト当日僕は、不安と焦りとストレスで問題を解くことが出来ませんでした。
その結果推薦テストは落ちてしまいました。
その時僕は、メンタルをやられました。それで学校にも行かないで家で一週間寝ていました。そして一週間と一日たったある日先生が大きい袋とともに来てくれました。最初は会いたくないと思ったけど袋の中身が気になったので話すことにしました。僕の先生は、「はやお、お前は、まだ頑張れる。クラスのみんなも応援してるよ。」と言って大きな袋を僕に渡し中を見るとクッキーとメッセージカードがたくさんあり泣いてしまいました。
それから僕は、また受験を再開しました。推薦テストの時の倍勉強しました。そして、本番当日僕は、飛行機の中でメッセージカードを見ながら会場へ向かいました。今回は、なぜかスラスラと解くことが出来ました。
そして迎えた結果発表僕は、緊張で夜も寝てなかったです。朝には、大きな袋が届いてて中身を見ると合格おめでとうと書かれていました。
僕は、その時クッキーとメッセージカードを貰った時の感動も増して泣きました。
あの時食べたクッキーは忘れないと思います。
※ 学校が特定できる表現のため、文字を伏せております。
「チョコがくれた恋」 広島県 中学校二年
私には、好きな人がいる。
「キーンコーンカーンコーン」授業の終わりのチャイムが聞こえた。私は、仲の良い友達と話していた。すると友達が、「バレンタイン○○くんにあげないの?」と、聞いてきた。そう、今は、一月でバレンタインが近づいていた。私は、好きなあのコにチョコをあげるか迷っていた。
(私があげても、○○くんは喜んでくれるのかな…?)私は、考えていた。
次の日、学校に行くと○○くんはいなかった。私は、気になって友達に聞いてみた。私は、その言葉に耳を疑った。「○○くん、昨日の帰り道で事故にあって、病院に運ばれたらしいよ。」「事故ッ!?」私は、驚きと動揺を隠せなかった。私は病院に、かけだした。
(○○くんが病院に!?私、全然、気づかなかった!)しばらく走って、病院に着いた。私は、受付に行った。「○○くんの病室はどこですか?」「○○さんですね?○○さんは○○○号室でございます。」私は、急いで病室に行った。ドアを開けると、○○くんは、眠っていた。「○○くん…。命に問題は、なさそう。良かった…。」思わず、安堵の声がもれた。私は、決意した!(チョコをわたすんだ!)今日はバレンタインデー。いつわたそうか、悩んで持ち歩いていたチョコをそっと枕元においた。その中には、告白の手紙も入っている。
翌週、彼は学校に来ていた。彼からは、感謝の言葉も何もなかった。(私、嫌われているのかな…。)私は、急に不安におそわれた。
月日がたち、ホワイトデーになった。私は、彼から呼びだされた。「なんだろう…。」私は、彼に言われた場所に行った。すると彼が、
「チョコありがとう。それから…好きだ。ぼくで良かったら付き合ってください!!」私は、急な告白に目をまるくした。「はい!」私は、こころよくOKした。
今でも、彼と楽しく過ごしています。
「母との思い出」 埼玉県 中学校一年
私は昔、よく母とお菓子作りをしていました。クッキーやスイートポテト、ケーキなど、お菓子作りが大好きだった私は、お菓子を作っているときの母との時間が、一つの楽しみでした。しかし、そんな楽しい時間も、すぐになくなってしまいます。母は病気になりました。がんです。私は母との思い出を奪われた気がして、本当に辛くて、悲しんでいました。当時の私は早く母が元気になって、また遊んだり、勉強につき合ってもらったり、お菓子を作りたい…。それをずっと願っていました。しかし、そんな私の願いを切りさいてしまったかのように、小学三年生の頃、母が亡くなりました。まだ小さかった私は、あまりにも突然すぎて、泣きもせず、ただその場に立って、亡くなったことを確認された母を見ていました。棺に入れられ、もうつめたくなってしまった母と最後のお別れをするとき、今まで流さなかった涙がこぼれ出てきました。突然すぎて分からなかった、母とはもう会えない。もうしゃべれない。あの楽しかった時間も、もう一生過ごすことはできない。という気持ちが、一気にあふれてきました。
「あなたが泣いていたら、お母さんも安心できない。」
と、何度も言われましたが、この悲しみを止めることなどできませんでした。ですが母はいつも私の事を見ている。支えになってくれる。と信じ、私は大好きだった母とのお菓子作りを一人でしてみます。こがしてしまったり失敗が続きます。そのたびに母の事を思い出しますが、
「もー何してんの!笑。」
という母の声が聞こえてきます。私が一人で完ぺきで愛情のこもったお菓子を作れる日はいつでしょうか?これからも母との時間を思い出しながら大成功を目指し、お菓子を作っていきたいと思います。
「自分らしさと幸せの形」 栃木県 中学校二年
私の父は料理人です。父の料理を食べて、笑顔になるお客さんを幼い頃から何度も見ていた私は、父に憧れを抱くようになりました。
そんな中私はあるものと運命的な出会いをします。それはお菓子作りです。昔、父が作ってくれたふわふわのパンケーキを食べてから、料理だけじゃない父の知識量に驚きました。私はもっと知識をつけて、将来パティシエになりたいと思っています。けれど、お菓子を沢山作っていくにつれ、自分に才能がないように感じて自信がなくなっていきました。父の知り合いのケーキ屋さんを見学させてもらうと、自分とは程遠い世界だと実感し、やるせない気持ちでいっぱいになりました。
何度も諦めようとした私に、父がこう言ってくれました。
「俺は頭良くなかった。でもラーメン屋になりたいって夢から自分に合った仕事を考えた結果が今。自分に合った仕事で自分らしく。」普段慰めたりしない父が私の夢についてこんな風に言ってくれて、この人が父親で良かったと改めて感じました。
それから私は自分にできることからやろうと、勉強をしっかり取り組むことにしました。今でも夢はパティシエです。父を越えるような知識と技術を身につけ、感謝の気持ちを伝えたいと思っています。将来は父のように自分のお店を持ち、父が好きと言っていたバウムクーヘンも店頭に並べたいです。
何層にも重なる生地が木の年輪のように見えるバウムクーヘンには
「幸せがいつまでも続きますように」
「幸せが幾重にも重なって大きくなりますように」
という意味が込められているそうです。幸せの形は人それぞれですが、私と父の幸せの形は少し似ていたのかもしれません。
「思い出のプリン」 北海道 中学校三年
プリンを見ると思い出す。楽しかった父との思い出を。
私は小さい頃からプリンが大好きだった。父に影響を受けたのだと思う。父は甘党で、私がテストで良い点を取った時も、けんかをした時も、何かある度に、おいしそうなプリンを買って帰ってきてくれていた。父はプリンを手に笑顔で、
「美羽、プリン食べるか?」
と聞いてくれた。そんな父の優しさがうれしくて、私はいつも、
「パパありがとう!一緒に食べよ!」
と返事をしていた。私が思うにそれは二人だけの合言葉になっていたと思う。
しかし、別れの日は突然やってきた。私が小学四年生の時、大きな失敗をしてしまい、その事で両親がケンカをしてしまった。それだけでなく、少し前から二人の仲は悪くなっていたらしく、しばらくして母と私と弟は家を出、父とは離れて暮らすことになった。
それからしばらくの間は、何度か父の家に行き、父の買ってくれたプリンを食べながら楽しい時間を過ごすこともあった。しかし、私が小学六年生になった年に母は再婚し、私も施設に入所したため、それきり父とは会えていない。
私は、プリンを見ると考える事がある。それは私達の人生は少しプリンと似ているのではないか…という事だ。つらい事、別れ、悲しい事は苦い部分。楽しい事、うれしい事、幸せな事は甘い部分。二面の感情や、二種類の出来事があり、調和することで今の私があるのではないかと思う。
私は中学を卒業したら、父の家へ行きたいと思う。もちろんプリンを持って。今回は私の手作りにしたい。うまく作れるか自信はないけれど、今までの私のはなし、父のはなしをしながら、プリンを食べて笑い合いたい。
「優しい祖父との秘密」 埼玉県 中学校二年
私と祖父には家族に言えない秘密があった。私がまだ小さかった頃、時々母に代わって祖父が習い事のお迎えに来てくれた。そして決まっていつも、家の途中にあるスーパーに私をつれ、好きなお菓子を買ってくれた。母と一緒に来る時は、虫歯になるのを心配して、キャラメルなどはあまり買ってくれなかった。しかし、祖父はいつも私の味方で、私が欲しいものを一つだけ必ず買ってくれた。
ある日、いつものようにお菓子売場へ行った時のこと、私はあるお菓子を見つけた。それはおまけつきのキャラメルだった。あまり口にすることのなかったキャラメルの味と、おまけの中身を想像すると、自然と私の心はわくわくした。そして祖父にねだってそのキャラメルを買ってもらった。二人でキャラメルをほおばりながら、頭はおまけのことでいっぱいだった。大きなキャラメルが半分ぐらいまでとけた頃、祖父と一緒におまけの箱をそっとあけた。中には小さな絵本が一冊入っていた。本が大好きな祖父と、小さな絵本を集めたくなった私、二人の心は決まっていた。祖父と私の秘密の始まりだった。それから祖父はお迎えの時はもちろん、そうでない日は私を散歩に誘ってくれた。それに二人の暗号で、行き先は言わなくともわかっていた。祖父の部屋でキャラメルを食べながら今日はどんな絵本が出るのかと二人で箱を開けては一喜一憂した。
時には祖父が新しい絵本が出たからとおまけの絵本だけ渡してくれることもあった。私の絵本はいつの間にか数十冊に増えていた。それから数年が経ち、祖父が一つの箱を渡してくれた。中を開けてみると、あの時の絵本が百冊近く入っていた。同じ絵本が何冊もあった。それこそが祖父の本当の秘密だった。私にとってキャラメルは優しい祖父との思い出がつまった二人だけの秘密の味なのだ。