長野の県南、伊那谷の南に位置する飯田の半生菓子は「地場産業」として地域経済を支えてきた。お菓子業界にとっても飯田は半生菓子のメッカの一つ。温暖な気候から果実栽培が盛んで、それらを原料にして農閑期の農家では、戦前から広く菓子作りが行われてきた伝統が「メッカ」の背景である。戦後の経済復興とともにその菓子作りは、規模を拡大して企業へと発展してきた。その飯田のお菓子作りを、原材料問屋として今日まで支えているのが戸田屋とその分家筋の外松だ。和菓子の技術をベースに洋菓子要素も取り入れ、独自の発展を遂げた『半生菓子』は、職人の創意工夫により我が国固有の和洋折衷型カテゴリーとなった。その飯田の『半生菓子』を県外に移出し、全国に知らしめた外松の商標登録『伊那節』シリーズにスポットを当て、飯田の半生菓子の今と将来を見てゆく。
卸と製造の二つの顔
長野県飯田市の製菓原材料卸また、地場産業の半生菓子の移出卸で知られる外松(外松秀康社長)の創業は昭和7(1932)年である。砂糖と畳表を商う老舗戸田屋商店(現㈱戸田屋)の次男であった外松種二郎が独立し、砂糖の卸を始めたのが始まりだ。
創業から4年後には製品作りを始めた。昭和11年に当時はモダンなヌガーを『飛行機印温泉ヌガー』として発売。戦後は、小麦粉の扱いを始めたことから『伊那節印乾麺』(昭和27年)を製造販売した。外松のDNAには、卸とメーカーの二つの因子が組み込まれているのである。
このことは、飯田が江戸期より茶の湯文化が盛んであったこと、また温暖な気候の中で農産物に恵まれた土地柄から、お菓子作りが農家の副業として広く行われていたことと無縁ではないだろう。飯田は戦前からお菓子作りが盛んだったことから、戦後、流通半生菓子のメッカの一つとして成長したのである。今日、重要な地場産業となったお菓子作りを原材料卸として支えた戸田屋と外松の存在は大きい。
外松の半生菓子のブランド『伊那節』について外松秀康社長は、
「弊社が一般菓子の問屋として本格スタートをしたのは昭和28年です。半生菓子を扱いだしたのは昭和44、45年ころ。新潟、宮城、山形…県外移出に乗り出した」
同社の沿革では半生菓子の『伊那節』が外松のブランドとして売上を急拡大したのは、それから4年ほど後の昭和48年頃からである。大袋の400gシリーズのヒットもあった。
「ブランド名の『伊那節』(登録商標)の採用は、お菓子より乾麺が先。この地方を代表するものとして、民謡の伊那節を採用したのでしょう。当時、芸者の市丸さんのレコードで伊那節は広く知られていた。今では若い人にピンとこないでしょうが、私の子供のころの盆踊りといえば伊那節」…
【続きは5470号43頁へ】
この秋に発売される新商品は、秋の味覚の『秋の味わいミックス』や、半生では珍しい『バナナチョコ』(写真上)など、若年層需要の獲得を狙うアイテムを発表した