株式会社大一製菓 代表取締役社長 一杉直樹 氏
創業以来、黒字が続くそのワケ
“湘南”というリッチなイメージが広がるその地において「お求めやすい価格ながらもきわめて高品質で美味しいチョコレート」づくりを手がける大一製菓(神奈川県茅ケ崎市、一杉直樹社長)。看板製品で国民的な人気を誇るロングセラー『ピーチョコ』でおなじみだ。今年は法人化して60年の節目にあたる。創業以来、わずか2期を除いて黒字経営を続ける同社発展の軌跡を一杉社長と辿る。そして祖父、父と続くチョコレート事業を「三代目社長」として今後どのように未来へと繋いでいくのか。思いの丈をきく。
『ピーチョコ』は庶民に届いた夢のチョコ
本紙 創業は1958年(昭和33年)、東京の中野区で社長の祖父にあたる和一さんが個人商店の形で当時人気だったマシュマロの製造を開始したところからですね。
社長 祖父はもともと静岡県の沼津市で小学校の教頭をしていたのですが、当時成長著しかったお菓子業界に魅力を感じて、今でいうところの華々しい転職を果たした人でした。当時は祖父のような素人でも新規参入が比較的容易だったことも幸いしたのでしょう。結局、マシュマロが成功を収めて、祖父は60年に有限会社としての大一製菓を設立します。社業も順調に伸び、後に新橋でとんかつ屋を営んでいた父・克彦と母を呼び寄せます。
——早くも61年には当時としては斬新で画期的な『ピーチョコ』の製造販売を始められました。
社長 チョコレートにピーナッツを混ぜ合わせる発想は当時、誰も考えてもみないことでした。まさにコロンブスの卵から生まれたような『ピーチョコ』でしたが、根底には祖父や父の思いがありました。というのも、チョコレートというのは当時の庶民にとってはまだまだ高嶺の花だったのです。祖父たちは少しでも多くの人にチョコレートを届けたいと考え、当時チョコレートより安価だったピーナッツを混ぜました。『ピーチョコ』はその結晶なのでした。お陰さまで発売開始から今日まで我が社を支えた看板製品に育ちました。この成功体験を通して、祖父や父は「お客さまの喜ぶ顔がみたい、満足させたい!」という思いがはっきりしたのです。その思いはやがて「大一製菓の伝統(心)」にもなりました。
『ピーチョコ』の商標登録は当初から我が社のものではありませんでした。商標権は意外にも『ピーセン』で有名だった銀座江戸一さんが関連商標として押さえられていたものでした。その後、円満に話が進み、71年に我が社に譲渡していただきました。
湘南・茅ケ崎からチョコ文化を発信
——『ピーチョコ』の果たした功績はとても大きなものがあります。
社長 いまでこそ機械で『ピーチョコ』は作られていますが、発売当初からしばらくは手作りでした。社員がひと粒ひと粒を手絞りしていたのです。一粒で約8グラムの『ピーチョコ』を大きなアルミ板1枚あたり80粒を、6人から8人で絞っていきます。一日で何と2㌧分に相当する25万粒を作っていました。この手作り『ピーチョコ』に対する会長(父の克彦氏)の思いはとても強くて、数年前まで年2回、会長の季節の贈答品として作っていました。手作りゆえに、ひと粒ひと粒がゴツゴツしていて、こんもりとした味わいのある形が特徴です。一般売りはしていませんでしたが、知る人ぞ知る逸品でした。(笑)
——『ピーチョコ』の大ヒットと商標譲渡という追い風を受けて、72年にいまの茅ケ崎市に新しく本社工場を建設し、全面移転されます。まさに順風満帆の発展ですね。新天地を茅ケ崎に選んだ理由とは?
社長 全面移転は父の克彦が陣頭指揮を執りました。いまも詳しい理由は聞いていませんが、父は「相模川の向こうには行きたくない」と語っていましたので、父なりのこだわりがそこにきっとあったのでしょうね。
——茅ケ崎というと、やはりリッチでハイカラなイメージです。日本人にとってはいまも憧れの地です。
社長 当社のホームページでも「思わず笑顔がこぼれてしまうようなチョコレートを湘南・茅ケ崎から皆さまにお届けします」と謳っています。父の考えには、おそらくチョコレートと湘南をハイカラなイメージで結びつけたかったのでしょうね。今度はっきり聞いておきます(笑)。ただし茅ケ崎というのは東と西とで生活エリアが違っていて、JR茅ヶ崎駅から東側にお住いの方々は、どちらかと言うとお隣の辻堂の方が足の便が良くて、案外と茅ケ崎のことを知りません。
茅ケ崎市民でも、まだ
「茅ケ崎に『大一製菓』というチョコレートメーカーがあること」さえ知らない人が多いのです。湘南と茅ケ崎を謳い文句にしている以上、看板に偽りがないよう、今後はより一層地元に溶け込む必要があるかも知れませんね(笑)。
(後編に続く)
【予告】
(後編)湘南からチョコ文化の香りを発信!